「正しさ」とは何か
今日のコラム♪
『「正しさ」とは何か』
今日は、
少し哲学的な内容になりますが、
もしかしたら、あなたの気づきにも
なるかもしれませんよ。(^_-)
最近、
あるネット記事を読んでいたときに
ふと感じたことがあるのです。
「正しいこと」とは、
誰のためのものなのか?
私たちは、
正しく生きる、正しい行い など、
『品行方正』は、良い事だとして
生きています。
しかし、
この概念は、本当に「正しいこと」
なのでしょうか?
自分自身にとっては「正しいこと」
なのでしょうか。
必ずしも、
「正しいこと」=「良いこと」
とはなりません。
「正しさ」とは概念であり、
絶対的真理ではありません。
時代によっても、
国や文化によっても
「正しさ」は違うものです。
このことは、あなたも
薄々気づいているのではないですか?
なぜなら、
ある人が、「正しい」と思って
とった行動が、別の人にとっては、
トンデモナイ迷惑なことだった…
こんな話は、
あなたにも1つや2つは
遭遇したことがあるはずです。
以前のブログの中で、
「戦争」をテーマで書いた際に、
「戦争とは、どちらにとっても
正義のためである」
と書きました。
人同士のケンカでも同じです。
それぞれが
自分は正しい、間違っていない
と考えるから争ってしまうのです。
戦争の場合、中には、
間違っていると感じながらも
国を守るために加担する人も
いるのかもしれません。
では、
なぜ、私たちは
「正しいこと」は良いことだ
と思い込んでいるのでしょうか。
その理由は、
今までの私たちの「生き方」が
そうさせているように思えます。
その「生き方」とは、
他人を意識して生きる ことです。
他人の目を気にして、
正しくあろうとする。
この意識が、
争いの火種になっていると
いっても過言ではないと
私は思います。
たとえば、
『そこから生まれる嫉妬心・・・』
誰に対しても親切で、
性格も明るいキャラクターの
人気者がいたとしましょう。
その人気者に対して、
アイツはかっこつけていて生意気だ・・・
と思う人も中にはいるのです。
これがエスカレートすると、
イジメなどにつながります。
しかし、
この現象は、
本当は、その人気者は
「正しい」と思うからこその
反応ではないでしょうか。
このような感情は、
他人を意識していると、
どうしても自分と比較してしまい、
生まれてくるものです。
このような例は、今に生きる誰もが
経験していることではないでしょうか。
それから、
『間違いを犯した人への糾弾・・・』
私は常々思うのです。
↑「ミステリーと言う勿れ」風…(^^ゞ
不倫や覚せい剤、
脱税などの「不正」は、
各人の問題です。
これは、一般的には
「正しくないこと」かもしれません。
しかし、
なぜ「正しくないか」と問われると、
誰もが納得するような「正解」を
持っている人はいるでしょうか。
しかし、
世間は、このような
「正しくないこと」をした人の話が
どうしても気になるのでしょう。
このようなニュースも後を絶ちません。
しかも、
その不正問題を抱えた人の生活環境まで
取材するような徹底ぶりです。
私たちは、
なぜ、このような報道に
釘付けになるのでしょうか。
なぜ、そんなにも他人のことが
気になるのでしょうか?
それは、
今までの教育にも問題があるのかも
しれません。
なぜなら、戦後の日本の教育が
『正解』を出す訓練だったからです。
「正しい答えを出すこと」が、
正しい勉強法だと教わってきました。
学校内でも、「校則」という形で、
「正しさ」を強要されています。
校則に違反した人は、
本当に悪い人ですか?
「正しさ」とは、
誰かが決めるものではありません。
そして、
自分と他人を比較するモノサシでも
ありません。
大切なことは、
「自分自身の素直な気持ちで、
生きていくこと。」
このことが、自分にとって
「正しいかどうか」であり、
他人がどう思おうが関係ないのです。
その結果は、
自らに帰ってくるし、
それでいいと思うのならば、
それが「正しい」ことなのです。
これではダメだ と思うなら、
修正していけばいい話なのです。
「正しさ」など、
誰もが同じではないのです。
誰かが決めた「正しさ」で、
人を裁いたり、
自分が考える「正しさ」を人に
押し付けるのは、
そろそろ手放していくときが
きているように思います。
もっといえば、
「正しいかどうか」など
考える必要すらないように思います。
「多様性の時代」といわれている今、
何かしらの「正しさ」を基準にして、
他人に干渉するようなことは、
もう必要ないのではないでしょうか。
さて、
あなたは、「正しさ」について
どう考えますか? (^_-)
では、今日はここまで~♪